
スッタニパータ(Sutta Nipāta)は、パーリ語で書かれた仏教の経典であり、『経集』(Khuddaka Nikāya)の一部です。
実は、仏教の経典を誰もが書いて広めても良いという解釈があります。
開祖も自由とされ、現代でも数え切れないほどの宗派に枝分かれしていますよね。
そんな経典の一部にスッタニパータがあります。
1年に1度くらいの頻度で、スッタニパータを読み返しますが自分の色眼鏡により名言の表情が変わります。
私の中の揺れ幅がまだあるわけですが、ここ数年はスッタニパータの言葉は死んでいる者たちと共存していた死んだ生きた側の言葉も含まれているように思うことです。
つまり、片道切符の死だったのが近年両道切符に戻りながら新たな視点を見えてしかたありません。
あなたも、言葉にできない言葉の真意に触れてみてはいかがですか。
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(1)「自らを支配することは、他を支配することよりも難しい。自らを征服することは、他を征服することよりも優れている。」
「出典:スッタニパータ」
(2)「怒りを滅ぼし、憎しみを捨て去り、無知を払拭することができる者は、真に偉大な者である。」
「出典:スッタニパータ」
(3)「忍耐強く、心地よいことと苦しいことを平等に受け入れる者は、真の賢者である。」
「出典:スッタニパータ」
(4)「無知に囚われるな。愚か者になるな。常に知識を追求し、真理を見つけ出せ」
「出典:スッタニパータ」
(5)「弱気は最大の敵」
「出典:スッタニパータ」
(6)「善悪をよく考え、善を選び、正しい行いを行う者は、幸福を得るだけでなく、他者の幸福ももたらすことができる」
「出典:スッタニパータ」
(7)「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」
「出典:スッタニパータ」
(8)「一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」
「出典:スッタニパータ」
(9)「交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。」
「出典:スッタニパータ」
(10)「あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。いわんや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。」
「出典:スッタニパータ」
(11)「身体は腸に充ち、胃に充ち、肝臓の塊・膀胱・心臓・肺臓・腎臓・脾臓あり、鼻汁・粘液・汗・脂肪・血・関節液・胆汁・膏(あぶら)がある。」
「出典:スッタニパータ」
(12)「またその九つの孔(あな)からは、つねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。」」
「出典:スッタニパータ」
(13)「「またその頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている。しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。」
「出典:スッタニパータ」
(14)「われは昔さとりを開こうとした時に、愛執と嫌悪と貪欲という三人の魔女を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起こらなかった。糞尿に満ちたこの女がそもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」」
「出典:スッタニパータ」
(15)「苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとをも知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。かれらは輪廻を終滅させることができない。かれらは実に生と老いとを受ける。」
「出典:スッタニパータ」
(16)「しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは輪廻を終滅させることができる。かれらは生と老いを受けることがない。」
「出典:スッタニパータ」
(17)「有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意(こころ)に適うもの、それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。またそれらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。」
「出典:スッタニパータ」
(18)「自己の身体(個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。正しく見る人々のこの考えは、一切の世間の人々と正反対である。」
「出典:スッタニパータ」
(19)「他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無智なる人々はここに迷っている。」
「出典:スッタニパータ」
(20)「特殊な偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、「論争が起こっても、汝と対論する者はここにいない」と。」」
「出典:スッタニパータ」
(21)「またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を他の諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。」
「出典:スッタニパータ」
(22)「さてあなたは「自分こそ勝利を得るであろう」と思いをめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、邪悪を掃い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない。」
「出典:スッタニパータ」
(23)「真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の「道の人」は同一のことを語らないのである。」
「出典:スッタニパータ」
(24)「みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか?かれらは多くの種々異なった真理を他人から聞いたのであるか?あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?」
「出典:スッタニパータ」
(25)「世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永遠のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「わが説は真理である」「他人の説は虚妄である」と二つのことを説いているのである。」
「出典:スッタニパータ」
(26)「真のバラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定して固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も優れたものだと見なすこともないからである。」
「出典:スッタニパータ」
(27)「「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄になると説く。」
「出典:スッタニパータ」
(28)「見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを常住または安楽であると認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらをそのように見たらよいだろう。真理に達した人々は、それを見ることによって清浄になるとは説かないからである。」
「出典:スッタニパータ」
(29)「「われは知る」「われは見る」ということに執著して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらにのみ清浄となる道を認める論者は、そのように一方的に見たのである。」
「出典:スッタニパータ」
(30)「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝も信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。ピンギヤよ。」」
「出典:スッタニパータ」

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