
・十牛図って何?
・十牛図が書かれた目的は?
・10枚の絵の意味は?
禅の教えである十牛図(十牛訓)は、牛の絵図からあなたの「悟りのレベル」がわかります。
心の成熟度をしれば、仕事や日常生活、人間関係にも役に立ちます。
この記事では、現在の指標がわかる十牛図 (十牛訓)を解説していきます。
1.十牛図(十牛訓)とは?わかりやすく解説

私が十牛図 (十牛訓)を知ったのは、中村天風さんの本「盛大な人生」です。
50年以上前に書かれた本ですが、「人生のバイブル」にする人が跡を絶ちません。
あの「MLBで2021年MVPを取った大谷選手」も読まれている本です。
その中の一部に紹介されているのが、「十牛図(十牛訓)」です。
十牛図(十牛訓)は「十枚の絵」

「十牛図」とは、逃げ出した牛を探しに行く牧人の様子を描いています。
段階的に10枚の絵で描かれており、詩が添えられています。
十牛訓とも呼ばれ、牛を探し求める牧人と「真の自己を探究する自分」をたとえたものです。
禅の道筋で表されており、「自分を探す旅」の物語絵になっています。
2.十牛図の大まかなステージ『説明』
作者は、中国北宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵(かくあん)です。
臨済宗は、禅にて悟りを得ようとした宗派で法(規則)が少ない特徴があります。
そんな時代背景のなか十牛図(十牛訓)は描かれました。
簡潔に「10枚の絵」には、二つの意味があります。
1〜7の図 「自我の世界・物質世界」
8〜10の図「空に近い世界」
また「10枚の絵」を4つに分けることもできます。
1〜3の図 インプットの段階
4〜6の図 アウトプットの段階
7と8の図 悟りや空の入り口の段階
9と10の図 一部は全て、全ては一部の世界ですべて何も無く暖かく見守る段階
まずは、十牛図を見て感じましょう。
次に、自分の段階をしっかりと把握するために「雑念」と「妄念」を説明していきます。
3.妄念・雑念について
自分の妄念・雑念を知ることは、1〜8の段階で必要です。そのために、あらかじめ解説します。
妄念と雑念は、氣が散乱している状態です。
呼吸に集中してください。
あなたは呼吸以外に意識がいきませんか?仕事をはじめ様々なことを考えてしまいませんか?

それが「雑念」です。
妄念や雑念があると牛に振り回されます。
妄念や雑念との向かい方は、道元禅師(曹洞宗開祖者)の「善き心構えを3つ持つ」ことです。
3つとは「喜心」「老心」「大心」です。大して難しいことじゃありません。
とても簡単です。
①喜心
喜心は、先に感謝を感じることです。空気がある。食べ物がある。
あることに感謝を先にします。
一般的な考え方と違いは、「ご飯が美味しい」と美味しいことに感謝をするのではなく。食べる前から、喜びを感じることです。
先に感謝をする | 起きたことに感謝する | 総合得点 |
---|---|---|
○ | ○ | ◎ |
○ | ✖︎ | ○ |
✖︎ | ○ | ○ |
✖︎ | ✖︎ | ✖︎ |
上記の表でわかると思いますが、先に感謝をしていたら、成功(〇)か大成功(◎)しかないのです。
世間一般では起きたことに対して感謝をしているので、成功(〇)か失敗(×)のどちらかになります。
この差が大きな違いを生みます。
②老心
老心は、親が子を思う氣持ちです。
子供が産まれて「有難う御座位ます」と思う氣持ちです。
人を思いやる氣持ちを大切に「愛を持ちましょう」ということです。
③大心
大心は、心を山のごとく大きな不動心を持つ。
つまり、「海のように広くゆったりした深い心を持つ」という意味です。
雑念・妄念に対しての心持ちがわかったところで、1〜10の段階をそれぞれ解説していきます。
4.「十牛図」と「詩」をわかりやすく解説
「逃げ出した牛を牧人が戻し、飼いならす10段階の修行過程」をひとつずつ紹介します。
第1の図「尋牛」:自分にあった「道」への旅たち

牛の一頭が逃げ出してしまいました。牧人は牛を探すためにキョロキョロとし、山や谷、川に一人で捜しに出かけます。
禅においては、悟りを得るために修行の道に入ることを表しています。
現代では、自分にあった本当の「道」を探し求める旅立ちです。
自分にあった道は、画家や作家、自然家、音楽家、科学者、建築家、スポーツ選手、漫画家、宇宙飛行士、医師、料理人など人によって違うことでしょう。
第2の図「見跡」:自分の「道」の跡を見つける

逃げ出した牛が見つかず、牧人はあきらめかけたました。その時、牛の足跡を見つけます。
牛の足跡は、釈迦の教え「同行二人」「自らを灯明とせよ」聖書「求めよ、さらば与えられん」「ドアを叩け、そしたら扉は開かれる」などと呼ばれ、見跡しています。
本当の自分の道はどこあるのかが、見えかけています。
自分にあった道は、画家や作家、自然家、音楽家、科学者、建築家、スポーツ選手、漫画家、宇宙飛行士、医師、料理人などから「画家ではないか?」と確信する一歩手間の状態です。
第3の図『見牛』:師匠の言っている事が明確にわかる段階

牧人は、とうとう牛の後ろ姿を発見します。ついにあるべき自分の道を発見しました。
禅では、公案が解けた瞬間です。悟りに至る直感的な知恵が得られた瞬間です。
ピカソの絵を見て直感力に「これだ」と思い「画家でこの世を創造していくのだ」と確信する瞬間です。
これは、人によって違います。スポーツ・僧侶で直感が来る人、十人十色です。
第4の図「得牛」:自分で実行するができない段階

牧人は、とうとう牛を捕らえ綱をかけます。しかし、逃げ出そうと暴れ牛と格闘します。
この場面で雑念・妄念が多くあると、迷いがでてきます。
禅では、心の迷いを取り除くために座禅し、修行します。
現代では、画家になろうと決心して行動し「本当に私に才能があるのだろうか?」
「ピカソみたいな絵を描けるのだろうか?」と一向に上手く絵が描けず、雑念・妄念に心が囚われます。
多くの方がここで挫折します。
第4の図『得牛』で挫けそうなあなたへアドバイス
妄念・雑念が出てきたら、身近に何度も何度も注意してくれる人がいるとこの段階は乗り越える「大きな手助け」になります。
雑念や妄念が出るたびに鞭をうってくれるからです。
僧侶の弟子が正座して、肩をぶつのは、この雑念や妄念に氣がむいたら直してくれます。
人にやってもらわなくても自分で「雑念と妄念が出てきた」と自覚して鞭を打つこともできます。
鞭といっても、氣を散乱させないように言葉で「雑・雑・雑」といったり、瞑想などの決まったルーティンを取り入れ日々精進することです。
第5の図『牧牛』:アウトプットが体現されつつある段階

牧牛は、暴れていた綱を手なずけています。牛は大人しく懐いています。
しかし、綱と鞭がなかったら、牛は逃げ出し暴れます。
油断すると雑念・妄念に心が囚われる状態を示しています。
画家は、ある程度絵が上手に描けるようになってきました。
しかし、「今日は調子がよくない」とか「自分の書いているものに価値がない」とか、書くことはしているものの油断すると「雑念・妄念」が出てきます。
第6の図「騎牛帰化」:体現が当たり前で習慣化された段階

牧人は大人しくなった牛の背に乗り、優雅に横笛を吹いています。
真の自己と自分自身が一体となっています。真の自己なので、落ち着いて、堂々としています。
妄念・雑念に囚われず、真の自己による笛の音色で表現しています。
画家は、自分の作品をかけるようになりました。妄念や雑念にとらわらず、自分の表現した絵を世に描いています。
人間界ではここで成功できます。しかし、燃え尽き症候群になりかねません。
途中までうまくいって、ある時からまた妄念や雑念に囚われて、悪評がつき追い込まれる人もいます。
なので、ここの絵でも綱はついています。
第7の図『忘牛存人』:すべてにありがたみを感じる段階

牧人は牛との旅を終え、くつろいでいます。
牛と一体化したのでしょう。牛が消えたと言うことは、妄念や雑念が消えた境地です。
そして、生きていることに「ありがたい」と感謝しています。
画家は、絵を描けることにとても感謝し、「ありがたい」と思っています。
雑念や妄念は消えて「尊い絵=真の自己の表現」ができているのでしょう。
第8の図『人牛倶忘』:全ては一部、一部は全て

牧人も牛もだれもいなくなりました。あるのは「空」白です。
禅でいう「円相」の世界が描かれています。真の自分は「一部も全て、全ての一部」だったのです。
画家というカテゴリーは無くなり、自分は創造するものの「一部で全て、全てで一部」であるという状態です。
我を忘れてます。
画家や作家、自然家、音楽家、科学者、建築家、スポーツ選手、漫画家、宇宙飛行士、医師、料理人など人によって違えど、お互いに協力し合い生きている。
行ったことは違えど、行き着く先は同じです。
第9の図『返本還元』:木は木である

真の自分は「全ての一部、一部も全て」です。
そして「木も私であり一部で全て、全てで一部」なのですが、本源にたどり着いても「木は木」なのです。
画家は、ピカソの絵をみて直感的に画家として旅をしてきました。
妄念・雑念や煩悩のエゴに囚われず「一部は全部、全部は一部」になりました。
しかし、「ピカソの絵は、ピカソの絵」なのです。自分の絵は自分の絵なのです。
第10の図「入鄽垂手」:空

笑みを浮かべ牧人は、何かを与えています。童子は迷っています。
かつての自分のように悟りを得ても、生きている限りは、妄念・雑念に囚われている人々に安らぎを与え、悟りに導く必要があるということです。
それと同時にこの描かれているのは、布袋さん(弥勒菩薩)に似ています。
布袋さんは、弥勒菩薩ともされ「空」の尊重でもあります。
ようするに妄念・雑念の手助けをしているうちに「空」そのものに同調するのです。
画家さんは、かつてのように妄念や雑念に囚われている自分のような人を牛としての案内役として役に立っていき、布袋さんみたいになっていくのでした。

ここからは十牛図 (十牛訓)とソクラテス(プラトン)の類似性を紹介します。
4.今回の十牛訓(十牛図)とソクラテス(プラトン)の類似性 まとめ
哲学でも同じことを伝えようとした人を紹介します。哲学の祖ソクラテスさんです。
ソクラテスさんの思想は十牛図 (十牛訓)多少の解釈の違いはあります。
しかし、おおまかな流れは変わりません。
ソクラテス(プラトン)の解釈は、以下です。
- 肉体的
- 精神的
- 一部は全部→全部は一部
- 元々何も無いよ『無の世界』
2500年前の西洋でも同じようなことを言うのは不思議な類似ですね。行き着いた時に形は違いますが、同じ思想になります。
それが「宇宙の真理」です。
- 十牛訓は精神のレベルを把握できる
- 生きている間は、自分の「道」に寄り添う
- 煩悩に囚われず、無我夢中で行う
- 「一部は全部・全部は一部」
- あなたも私なので、煩悩に囚われている人々の役に立つ
- そうすると「空」そのもの
今回の記事が少しでも役に立てばと思い、十牛図 (十牛訓)を紹介させていただきました。
最後まで読んでいただき大変嬉しく思います。
生かしていただいて有難う御座位ます。



